HYLOGICS

今後は各分室にコンテンツを移して、ここは雑記や暮らしを中心としたライフログ的な何かにしていく予定です。

臆病な優しさ、あるいは不用意な寛容さの先にあるもの

ここ数年で和解したと思っていた相手から今日もまた一つハシゴを外された。というよりも、そこにハシゴはそもそもなかったのだ。つまるところ、私が間抜けで、そして、そう扱うに等しい人間だったということだ。怒りよりも悔しさが先に立つ。

私の中にある、ある種の「優しさ」というものが臆病さの裏返しでしかないということは、随分前から気がついていた。かつて実家を出た日に、そして自分の主催するコミュニティを解散した日にも、そういう柵から自分は解放されたと思っていた。……のだが、結局のところ臭いものに蓋をしていただけで、何も解決していなかったことに気がつかされた。それもつい最近の話で、冒頭の話と併せてここ数日立て続けに耐え難い痛みの中にいる。私のSAN値は減る一方だ。

これは今に始まった話ではない。これまでの人生においても概ねそういうものだった。私の弱さ……つまり、他人への、そして自分への甘さが、誰かにつけこませる隙が、自身の言い訳が、腐臭を放っているのだろう。他人に礼節を失わせ、そして礼節を失った畜生を人のように扱う過ちを犯してしまっている。クソのような人間のクソのような問題に巻き込まれるのはひとえに自分の弱さゆえでもある。

ここでいう礼節とは取り繕った言葉のことではない。人の為すべき作法だということだ。

故事に「情けは人のためならず」とある。これを"他人に情けをかけると本人のためにならない"と解釈するのは誤用なのだが、それを踏まえても"情けは本人のためだけではなく自分のためにもならない"と思う。不用意な寛容さが撒いた種が、結局は自分を苦しめる。

優しさは苛烈な厳しさとともにある。せめて、甘さを殺した上で自覚的な寛容さを与えよう。他人に情を与え続けることは難しいのだから、情を移す相手は選んでいこう。

植物に水をやるように、人の関係もメンテナンスしていかねば枯れてしまう。だから、(たとえ家族であれ)親しい仲にも(あるいは親しい仲だからこそ)礼節と共に向き合うことが必要なのだ。そのことを、多くの人に知ってほしいと思う。