何と向き合って生きるのかは自分で決めていくということ
のんびり時間が流れていく。
テレビを見て、あるいはネットサーフィンに興じ、あるいはスマホでゲームをして、気が付けば今日も一日が終わる。
人間は今日と同じような日が明日も明後日も続いていくものだと無意識に考えているフシがある。だが、本当にそうだろうか?
メメント・モリという言葉がある。私がこの単語に触れたのは20年くらい前に何かの本を読んでいたときだったような気がするが正直詳細はよく覚えていない。概ね「いつ死ぬかわからないからこそ精一杯生きよう」などという趣旨だと思うが、転じてニヒリズムの文脈で扱われることも多い気がする。割と創作なんかでも見る。
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。
ここ数年、自分の余命を考えることがある。これは決してネガティブな意図ではなく、人生において死は必ず向き合わねばならないイベントの一つとして捉えている。フランスの作家アンドレ・マルローの言葉を借りるなら『僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ。』といったところか。
80で死ぬのか、70で死ぬのか。私の場合は不摂生もある、そう長生きは出来ないだろう。もしかしたら来年には死んでいるかもしれない。仮に余生が40年なら14,600日*1だ。そう考えると人生にはやり残したことが多すぎる。まだまだ死ぬわけにはいかない。何かブレイクスルーが起きてカジュアルに電脳化出来る世界が来てほしいと思う。
そもそも人生において逃れられないイベントというものは幾つかあるのだから、それ以外に何と向き合って生きるのかは自分で選択しないといけない。というか、自分の置かれた環境っていうのは基本的には自分が意識的にせよ無意識にせよ選択した結果だということがほとんどなんじゃなかろうか。
まぁ選択肢が「最悪」か「最悪よりちょっとマシ」しかなかったり、「良い目と見せかけて実は裏目」とか、そういうこともあるけれど。せめてその選択肢には自覚的でありたいところなんじゃないかな。これは一般論だけど、職場がクソなら転職なり企業なり職務改善なりすればいいと思うし、自治体がクソなら引っ越すなりロビー活動すれば良いし、ネットで消耗してるならネットの使い方を考え直せばいいと思うよ。
*1:うるう日含まず